築城年代は定かではないが天正年間(1573年〜1592年)に北畠具親によって築かれたと云われる。
北畠具親は北畠具教の実弟で奈良の興福寺東門院院主となっていたが、天正4年(1576年)北畠具教が北畠信雄によって謀殺されると、還俗して北畠具親と名乗り北畠再興軍を挙げ伊勢に入った。しかし織田の大軍によって鎮圧され、毛利輝元を頼って鞆へ落ちていった。
北畠具親城は標高442mの山に築かれている。
伊賀では珍しい連郭式の比較的大きな山城である。主郭は山頂にあり北西を除く三方を大きな横堀で断ち切っており、南側は末端が竪堀となる。主郭の北西下にあるのが二郭で南に虎口を開く。そこから北と西に延びる尾根に段曲輪が続いている。
主郭の南東に分厚い土塁がl字に残る曲輪があり、その背後の大堀切となる。南東に続く尾根には緩斜面地形が続くが少し高くなったところに堀切がある。
県道沿いに北畠具親城の看板がある。登山道はその北側にある道路沿いにある民家の脇からで、入口に小さな道標が出ている。
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