建武2年(1336年)に野辺盛忠によって築かれたと云われる。
野辺久盛の子盛忠が南朝方に属して櫛間城を居城とした。野辺氏は盛忠のあと、盛房、盛久、盛在、盛仁と続くが、嘉吉元年(1441年)盛仁は足利義満の子の大覚寺義有(義昭)を匿った罪で罰せられ、野辺氏は滅亡する。
野辺氏の後は伊作久逸が城主となった。久逸は飫肥城主の新納忠続と争いとなって伊東氏と結ぶなど島津氏に反旗を翻したが、その後降伏して伊作の地に戻り、櫛間は飫肥城主となった島津忠廉の管理となった。
天正15年(1587年)豊臣秀吉による九州征伐の後、筑前国古処山城より秋月種実・種長が高鍋三万石に転封となり高鍋城へ移った。慶長4年(1597)には櫛間城へ移り居城としたが、慶長9(1604年)に再び高鍋城を居城としたため廃城となった。以後、串間は高鍋藩の飛領地となった。
櫛間城は福島川に沿って南北に伸びた台地の東端に築かれていた。 現在は上ノ城工業団地として造成されており、遺構の大半は消滅している。
上ノ城工業団地という名前しか残っておらず、現地には案内板すら設置されていないようである。遺構は殆ど硝煙しているが、北端付近には曲輪や空堀と思われる地形が残されており、秋月氏の菩提寺である西林寺付近も堀と曲輪らしき地形が残る。
『宮崎県中世城館跡緊急分布調査報告書』によれば深い空堀で区画された群郭式山城で13か14の曲輪から成っていたようである。
上ノ城工業団地の北側に若干遺構が残る。北の西林寺は西の県道441号線から入口があり、境内には秋月氏の墓がある。
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