築城年代は定かではないが南郷阿蘇氏の居城である。 鎌倉時代阿蘇氏は南郷に城を構えて居城としていたが、承元元年(1207年)頃に阿蘇惟次が南郷より矢部へ移った。
南北朝時代には菊地武重が懐良親王を征西大将軍に迎えて足利尊氏に対すると、阿蘇惟直は菊地氏とともに足利尊氏と多々良浜に戦ったが、菊地軍は総崩れとなり、阿蘇惟直は討死した。この勝利に勢いを付けた足利方は南郷城を落とし野尻城まで攻め寄せた。
足利方は南郷城に三村又次郎を置いていたが、阿蘇家を継いだ阿蘇惟澄は岩尾城より南郷城へ押し寄せ、三村又次郎を討ち取って南郷城を回復した。 しかし、一族の坂梨惟長等が足利方に味方してまたもや南郷城が占拠され、再び惟澄は南郷城へ押し寄せ、坂梨父子を討ち取って回復した。
天正年間(1573年〜1592年)に島津軍が南郷へ侵攻すると、長野城主長野惟久が南郷城に入って戦ったが敗れて討死した。
城は南の山塊から北へ突き出た尾根の先端が小高くなった小山に築かれ、南北に細長くなっている。
山は全体的に竹薮と植林された林となっている。北側から尾根を伝って登って行くと浅い堀切があり、さらに進むと東側の側面に堀底道が山上へと続いている。尾根を更に進むと頂部に至るが山上は薮が激しく、平坦面ではあるが土塁などは確認できない。南側に降りていくと空堀があり、主郭の東側面を回っている。途中堀ではなく帯曲輪状になっているが、山を降るにつれてまた堀となり、登る途中で見た堀底道へと続いている。この道は途中で竹が酷く倒れており山下まで降りることができなかった。
なんとなく気になったのは「原尻神社」の狛犬で、通常神社に向かって右が「阿」左が「吽」で「阿吽」を示すが、この神社は逆に配置されている。
県道28号線にある「四季の森温泉」の東側にある山が城址で県道沿いに標柱が建っている。山へ登る道はないが、山の東側にある集落の原尻神社近くから尾根までは、山が比較的きれいになっているので尾根沿いに登る。
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