築城年代は定かではないが戦国時代に築かれたと云われる。
天文年間(1532年〜1555年)頃の城主は福王寺氏が城主で、上条定憲が乱を起こした時には長尾為景方として戦った。
天正6年(1598年)上杉謙信没後に起こった御館の乱では、城主佐藤平左衛門は上杉景勝方となり、三郎景虎方の栃尾城主本庄秀綱らに攻められたが撃退した。
慶長3年(1598年)上杉景勝が会津へ転封となり、かわって堀秀治が入封すると小倉主膳正煕が八千石を領して城代となった。慶長5年(1600年)上杉景勝が越後の旧臣を扇動して一揆を起こすと一揆軍は下倉城に攻め寄せ、これに立ち向かった小倉正煕は討死したが、救援に駆けつけた堀直寄によって鎮圧された。
城は破間川が魚野川に合流する地点の北に聳える権現山の南東尾根の頂部に築かれている。比較的急峻な南側の傾斜に東西に長い曲輪を階段状に設け、東西両側に土塁を残している。尾根の頂部の曲輪には北側に土塁が残り、日暮間近で確認できなかったのだが山頂に続く尾根を堀切で断ち切っている。
国道17号線沿いに石碑が建つ。ここの集落側の道を少し東側に行くと民家が有り、その西側に山裾へ向かう道が有る。この奥に石塔が建っていて、ここが城山への登山口。
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