築城年代は定かではない。 寿永年間(1182年〜1185年)に木曽義仲が越後に侵攻した際に今井兼平を留めて守らせた。とも、南北朝時代に新田氏の一族が築いたとも云われるが詳らかではない。
現在残る遺構は戦国時代のもので、上杉氏の家臣金子次郎右衛門などが在城したと伝えられるが定かではなく、金子次郎右衛門は琵琶懸城に在城していたとも云われる。いずれにしてもの信濃国との国境を固める要害として上杉氏の重臣が在城していたと推測される。
今井城は信濃川南岸の段丘の北端に築かれており、東西両側も支流による浸食で深い谷となり天然の要害になっている。
今井城は空堀で区画された南北二郭からなり、北が本丸、南が二の丸となっている。
本丸の規模はそれほど大きなものでいはないが、南の空堀に面して高土塁があり中央が開口している。この開口部は二の丸にある橋台に木橋が懸けられていたようである。本丸から北へ伸びた尾根は急峻であるが、ここに腰曲輪と堀切二条があり、本丸の東側面には畝状竪堀群を設けている。
本丸と二の丸の間は大空堀で、ここには木橋が架かっていたが、二の丸側に木橋を受ける橋台がある。大空堀の底には仕切土塁があり、西はさらに小さく仕切っている。このような遺構は近くの仙当城にも見ることができる。
二の丸は広く東西二段になっており、これも南端の空堀に面して高土塁となる。空堀は中央付近で鈎状屈折し、東が南に張り出すことで馬出しに架かっていた木橋に対して横矢が架かる。二の丸の外側には小規模の馬出しがあり、浅い堀が半円形に回っている。
国道117号線沿いの大井平入口交差点の所に今井城への道標が出ている。ここから大井平集落に上がり、丁字路を東へ曲がって更につづら折りの坂道を登って城原集落のある台地に上がる。そのまま道標にしたがって行くと標柱と案内板の建つ入口にたどり着く。
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