詳細不明。戦国時代末期、信濃を追われ上杉氏を頼っていた村上義清の子国清の家臣酒井(坂井)弾正清信が赤沢城代であったとも伝えられる。
赤沢城は信濃川に面した段丘の北端に築かれており、現在は町指定史跡として整備されている。
信濃国境に近く、隣接する今井城と同様に段丘端を台地から切り離すような巨大な空堀を有する城であるが、縄張から今井城よりは古い時代の城と考えられている。
現在ある遺構は段丘突端部にある曲輪I、IIのみである。曲輪IとIIを遮断する堀切1は通常の規模で西端が浅く土橋になっている。曲輪の規模からして主郭となるのはIIであろう。
曲輪IIは南の台地とは堀切2で遮断しているが、その規模は最大幅は20mほどもある。南端中央には虎口があり、両サイドは分厚い土塁となる。虎口の外側はわずかに東に通路が伸びており、この対岸に石碑のたつ橋台が残る。この橋台と虎口外の通路が木橋で結ばれ、左、右に折れて曲輪IIに入る構造であった。
堀切2の外側には水田が拡がっているが、現在でも堀の名残が3ヶ所縁に残されている。『甲信越の名城を歩く 新潟編』によれば、発掘調査によって水田の下から3か所の居館とされる曲輪群が出てきたといい、一番東の居館は二重堀で堀3と堀4はその名残であったようだ。
南の県道から集落の一番東の道を北へ進んで行くと一段下がった台地に降りて行く道となり、その終点に駐車可能である。駐車スペースからそのまま水路やあぜ道を通って橋台まで行くことができる。
最寄り駅(直線距離)