越中 館の土居えっちゅう たちのどい
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築城年代は定かではない。館主は多智民部大輔政道で般若郷の地頭であったという。 多智氏は増山城主神保氏の為に没落したという。
圃場整備以前は西と東に土塁が残っていたようであるが、圃場整備によって大半の土塁が失われ、墓地となった部分の土塁がわずかに残るのみという。