築城年代は定かではないが寿永年間(1182年〜1185年)に宮崎太郎長康によって築かれたと云われる。
寿永元年(1181年)源義仲は都落ちした北陸宮の御所を八幡山(城山)に築き奉じたといわれ、このとき在地豪族の宮崎太郎・南保二郎・入善小太郎などの名が見られる。
宮崎城の名が史料に現れるのは南北朝時代で、越後守護上杉憲顕の家臣長尾景忠が南朝方の籠もる宮崎要害で勝利を得たとあるのが唯一という。
越後との国境にある宮崎城はその後も重要視され、椎名氏の家臣や越後の上杉氏の家臣などが在城した。戦国時代末期になると越中へ侵攻した織田軍は松倉城や魚津城を落とし、越中に入国した佐々成政の家臣が在城した。成政の後は前田氏の家臣高畠織部が在城したが、後に廃城となった。
宮崎城は笹川東岸の城山山頂に築かれている。 主郭は標高248.8mの城山山頂にあり、北端中央に小高くなった土壇があり、一段下がって曲輪が拡がる。主郭の西下が二の丸、さらに尾根の先端部が三の丸という。 三の丸は南端に石塁が残っており、ここに北陸宮の御墳墓と宮崎太郎長康の供養塔がある。三の丸から北に遊歩道に沿って降りていくと七曲がりの堀切に至る。
本丸の南側は本来は堀切であったが、太平洋戦争時に旧陸軍が土橋を架け、その南の公園になっている平坦面も旧陸軍による削平が行われ旧状を失っている。この辺りにも堀切などが残ることから城域であったと思われる。
国道8号線横尾西交差点を東へ曲がり県道103号線を東進する。北陸道の高架橋下を潜って少し進んだ所に左上に登っていく道があり、ここに道標が出ている。このまま車道を進んで行くと山頂近くの駐車場に至る。
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