築城年代は定かではないが朽網氏によって築かれたと云われる。 朽網氏は藤原秀郷の後裔藤原親能を祖とすると云われ、大友氏初代能直を預かって養育し豊後に下向した人物とされる。
天文13年(1544年)大友義鑑は諫言を信じて朽網親満を府内で誘殺した。これを聞いた親満の弟親定は山野城に籠もって戦ったが敗れて自刃した。
その後、大友義鑑は津賀牟礼城主入田親真の次男鑑康に朽網家を継がせ再興させた。
山野城はこの朽網鑑康のときに改修され、「一万田堀」、「志賀堀」、「入田堀」、「田北堀」など大友氏の有力家の名が付けられた。
天正14年(1586年)薩摩の島津軍が支城の三船城を落として攻め寄せてきた。このときの城主朽網鎮則は島津軍からの降伏勧告を受け入れ開城した。
山野城は河内川と市川との間にあり南東へ伸びた台地の上に築かれている。
山野城は現在北端付近に案内板と石碑があり、この辺りには堀や曲輪と思われる遺構が拡がる。山野城を歩くにあたって『大分の中世城館』に掲載されている図面を参考にしたのだが、どう見てもこの図面と現状の地形が合わず、細かな部分はさっぱりわからない。
南北の両側は川に面した断崖であり、その間を緩やかに伸びる台地に築かれているため、空堀を入れて曲輪を区画していたようである。ただこの曲輪群の中心部を林道が貫通していることが、さらにこの城跡の地形を複雑にしている。林道の北側には自然の谷間や平段、さらに尾根上には土塁が続いているが、これも遺構かどうか判断に苦しむ構造である。
城内を通る林道は舗装されており、案内板の所に車で行くことができる。