築城年代は定かではない。戦国時代の城主は和智氏一族上原氏であった。
上原元将(元祐)は毛利元就の女を正室に迎えていた。天正10年(1582年)羽柴秀吉による備中高松城攻めの頃、元将は境目の一つ日幡城に在番していたが、秀吉の調略にのって毛利から離反する。この離反はすぐに発覚し、毛利が対応したため元将は逃亡、上原氏は滅亡した。
その後、上原領には毛利元就の子秀包(後の小早川秀包)が入り円寿寺城を居城とした。
今高野山城は今高野山龍華寺の背後の山上にある。現在は城の一角に天守をもした展望台があり遊歩道が整備されている。
山頂の主郭I1から南北に伸びた尾根上に曲輪を連ねており、北端の曲輪IIIに展望台がある。
主郭I1は南北に長い曲輪で中央部に甲岩(かぶといわ)と呼ばれる天然の岩が残されているものの、丁寧に削平されている。土塁は南端I2との境に小規模なものが確認できる程度である。
主郭から北へ伸びる尾根に曲輪群IIがある。削平は甘く細長い自然尾根を使った曲輪群があ、北端部は小規模に段分けしてある。その先に鞍部として一段低い曲輪IV、そして一一段高くなる曲輪IIIと続く。
曲輪IIIには現存する防空監視哨がありこのときに改変されたという。手前の石垣は後世のものである。側面には腰曲輪III2~III4があり、これは当時の遺構と評価できる。
主郭の南側は曲輪I2、I3が確認できる。南背後に続く尾根は多重堀切1で遮断しているが、東側I3の下方には縦溝状になった山道、自然地形に近いものが確認できる程度で明確な堀はない。
主郭I1から北の曲輪IIの西側面に畝状竪堀群2が確認できる。石がゴロゴロしている地形で竪堀が整然と並ぶようなものではないが、南端部や北端部は良く残る。主郭の西側面には犬走り程度の細長い曲輪が二箇所設けられている。
今高野山観光者用の無料駐車場やトイレ、日帰り温泉もある。登口は今高野山龍華寺と丹生神社の間くらいにある。
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