築城年代は定かではないが多賀谷景茂によって築かれたと云われる。 蒲刈多賀谷氏は関東の千葉氏一族で、観応2年・正平6年(1351年)に伊予国周桑郡北条郷の地頭であった多賀谷氏が、下蒲刈島にきて築城したのが始まりという。同族に倉橋島の丸子山城を拠点とした倉橋多賀谷氏がいる。
多賀谷宮内少輔武重は水軍衆を率いて大内氏に従い、明応8年(1499年)豊前国小倉津合戦や永正8年(1511年)山城国船岡山合戦に従軍して大内義興より感状を得ている。大内義隆が陶晴賢に討たれ、陶氏も毛利元就によって滅ぼされた後は、毛利氏に仕え長門国美祢郡下加万別府などの所領を安堵されている。
武重の後は宮内大輔春貞、久兵衛元重と続き、元重は毛利秀元に仕えて朝鮮に従軍している。
丸屋城は下蒲刈島の北東部、天神鼻と呼ばれる半島に築かれている。 半島の西側は入江となっており「大津泊」と呼ばれ良港として栄えた。
現在は天神ヶ鼻の半島部分が公園として整備されており、この部分に数条の堀切が残っている。主郭は南背後にある小高くなった所で、中央に観音堂が建っているとのことだが草木が茂っており確認していない。
本州から安芸灘大橋(有料)をわたって南に見える半島が城趾。南側の県道74号線沿いに道標があり、奥に駐車スペースがある。
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