築城年代は定かではないが多賀谷氏によって築かれたと云われる。 倉橋多賀谷氏の祖は多賀谷興重と云われ、伊予国周桑郡北条郷の地頭多賀谷氏の一族が倉橋島に拠点を構えたのが始まりとされる。同じく下蒲刈島の丸屋城を拠点とした同族の蒲刈多賀谷氏がいる。
倉橋多賀谷氏は毛利元就が陶晴賢を討った後、陶方であった多賀谷興頼とその子頼重(興基)とともに毛利氏に討たれ滅亡した。
「棚守房顕記」によれば、寅の年(永正3年?)に倉橋多賀谷氏の舟の者が酒に酔ってわめき散らし、厳島の神官との間で争いとなった。このとき蒲刈多賀谷氏の舟167艘が応援に駆けつけている。この帰路、蒲刈多賀谷氏の舟は暴風によって沈み、多賀谷兵部少輔をはじめとして二十四人が海に沈んだという。この霊を沈める為に始まったのが「多賀江念仏」で現在の「宮島踊り」の由来である。
丸子山城は倉橋島の中央南端にある本浦の北側の丘陵に築かれている。 火山から派生した尾根の先端部分の背後を断って独立された丘陵には、階段状に削平地が設けられているとのことだが、現在は大藪の中に埋もれて確認することはできない。わずかに西側は畑として利用されており、このあたりは階段状になっているのが確認できる。
城山の南東にある西蓮寺は多賀谷氏の菩提寺で、ここに多賀谷興頼のものと伝えられる五輪塔がある。
倉橋小学校を目指す。小学校の北側に道標があり、東に西蓮寺、北西に城山がある。