詳細不明。城主は財満市之進と伝えられる。
財満氏(ざいま)は菅原道真の八男兼重より出た一族で、応仁の乱の後に美作国より安芸国賀茂郡財満郷に来住して財満氏を称した。その後、飯田村(現在の八本松町飯田)を拠点として勢力を張り、周防の大内氏に従っていた。「平賀家文書」に「飯田村百貫才満孫太良、才満新右衛門知行」とある。
天文20年(1551)大内義隆を討った陶晴賢が、西条の大内氏の拠点である槌山城を攻略するため、毛利氏に命じて槌山城を攻めたが、このとき槌山城に籠城して討死した武将に財満入道宗因がいる。
清滝城は八本松町飯田と志和町志和東との境に聳える標高597.8mの深堂山山頂に築かれている。山頂の主郭から西に向かって伸びる尾根に曲輪を配している。
主郭は山頂にあって三角点のある中央やや北側が一段高く、東に一段下がった段があり、南北両側から通路になっているが、虎口かどうかははっきりしない。西端は低土塁が南北に付いている。主郭の東下には帯曲輪が巡っており、二条の竪堀によって帯曲輪は三区画ほどに区画している。
主郭の西下は浅い空堀があり、小郭を挟んで更に土橋の架かる堀切があり、西の曲輪群へと繋がる。空堀で区画された小郭は中央に土塁が付いている。
西の曲輪群は東西に長く低い段差で西に段々と連なる。その南西側には帯曲輪が雛壇状に付いている。ここから南へ伸びた尾根は浅く広い堀切、西尾根の先端は土塁が付いてその下に堀切がある。
「広島県中世城館遺跡総合調査報告書」に掲載されている縄張図では、上記までを城域として描いているが、ここから更に西へ進んだ所に一条の堀切がある。その間の尾根は比較的平坦な地形もあるが、自然地形に近いもので曲輪とは言い難いが、この堀切によって切り出された先端部は、削平されて小段も付いている。この部分まで含めると東西の規模は300m程になる。
今回の登山口から少し入った所には「清滝」があり、中世には清滝寺という寺院があったという。
登山口は八本松飯田と八本松正力の境付近にあり、山陽道の高架下をくぐった奥にある鉄塔付近に駐車していける。(地図)
道標が全くないが、道が怪しくなる所からはマーキングテープが付いている。山道自体はしっかりしており問題ない。下山で利用した今坂峠はトンネル南口の西側の斜面を登った所で、鉄塔から尾根道が付いている。こちらもマーキングテープが付いている。
最寄り駅(直線距離)