築城年代は定かではないが鎌倉時代に河津氏によって築かれたと云われる。
その後、大内氏の家臣相良氏が城主であったが、厳島合戦の前哨戦ともいわれる折敷畑合戦に勝利した毛利氏は中山城を取り囲み、水の手をきったので相良氏は降伏したという。
中山城は小さな2つの川の間を南東へ伸びた比高50mほどの丘陵に築かれており、現在は史跡公園として整備されている。
舌状に伸びた尾根を利用する場合、尾根先端を城域とするパターンが一般的であるが、中山城は緩斜面地形の尾根先ではなく、やや小高くなった部分のみを城域としているのが特徴である。
曲輪は最高所のiを中心に、東下にii、北下にiii、南下にivと腰曲輪程度の曲輪を配置し、この曲輪の周辺に堀切と畝状竪堀を設けて要塞化している。堀は東尾根がおそらく二重堀切(堀切1)、西尾根が三重堀切(堀切4)、北は浅いが二重堀切(堀切3)、南は一条の堀切の外側に非常に浅いが放射線状畝状竪堀群(5)がありその、堀切の両脇にも畝状竪堀群を配している。
山の東麓を県道から北へ進むと左右に広場があり、そこに案内板が設置されている。
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