築城年代は定かではないが栗栖氏によって築かれたと云われる。 栗栖氏の出自は詳らかではないが、鎌倉時代後期に入部して開発領主として成長していったと考えられている。
栗栖氏最後の当主は栗栖権守で厳島神領衆の一人として厳島神主家の滅亡まで尽くした人物で、天文10年(1541年)厳島神主家の友田興藤(藤原興藤)が大内義隆に背いて滅ぼされたときも「大田の栗栖ただ一人お供」と記されている。
栗栖氏の滅亡は明確ではないが、厳島神主家が滅亡して大内氏が安芸の諸城に大内家臣を配したとき、山県郡の大田城には島田中務丞、伴田中兵衛丞、小坂三河守を配置した。この三人のうち小坂三河守が栗栖氏一族であった。
大内義隆が陶晴賢に討たれ、陶氏と毛利氏が対立するようになると、天文23年(1554)に陶方は大田・山里一揆を起こし毛利に揺さぶりをかけた。この大田一揆の指揮者の一人が小坂宮内少輔で、毛利方に敗れ栗栖一族は滅亡したという。
発坂城は太田川と寺領川との間に南東へ伸びた丘陵の先端頂部に築かれている。
最高所の主郭Iを中心に北東尾根に腰曲輪II、南尾根に腰曲輪IIIを配置する。東尾根にも加工が確認できるが、発電施設にともなうもので現状では城郭遺構とは判断できない。
主郭背後は三重堀切で遮断している。最も城内側は明瞭に竪堀が伸びるが、外側は浅く尾根上にコブ状に残された地形があり多重堀切と判断できるような形状である。出丸とされる岩田城の多重堀切は一つ一つの堀切が明瞭に区画されて竪堀が伸びるが、近くの加計にある茶臼山城でも発坂城のような多重堀切が確認できる。このような形状の多重堀切がこの地域の特色の一つなのか、構築年代によるものなのか、あるいは風化など外的要因によるものなのかはわからないが興味深い。
西麓にある実際寺は栗栖氏の菩提寺で、二代栗栖喜太郎のとき雪舟嘉猷による開山である。お寺は現在無住であるが、背後の山に「実際寺の開山塔」が残る。
岩田城の下をくぐるトンネルがあり、その南口に登山道入口がある。入口付近に駐車可能で案内板も設置されている。登山道は最初少し降って行く道である。
2026年現在トンネルのすぐ近くで新しいトンネルと道路を建設中であった。