築城年代は定かではないが栗栖氏によって築かれたと云われる。 栗栖氏の出自は詳らかではないが、鎌倉時代後期に下野国から栗栖親命が来住し、正和4年(1315年)に栗栖高基が発坂城を築いたとされる。
発坂城主の栗栖氏は高基を初代として喜太郎(帰源)、親兼(遠江守)、親高(伯耆守)、親忠(左馬允・近江守)、権頭と六代続き戸河内一帯を支配し、厳島神領衆として桜尾城の厳島神主家に従っていた。
天文10年(1541年)厳島神主家の友田興藤(藤原興藤)が大内義隆に背いて滅ぼされたときも「大田の栗栖ただ一人お供」と記されているように、栗栖氏は神主家と親密な関係にあった。その栗栖氏も天文21年(1552年)石見国福屋氏との所領争いにより、発坂城に籠もり戦ったが敗れ、栗栖権頭は自刃して果て栗栖氏は滅亡した。
発坂城は太田川と寺領川との間に南東へ伸びた丘陵の先端頂部に築かれている。 尾根続きの北西背後には岩田城を構えている。
発坂城は太田川と寺領川を天然の濠として利用する形で、尾根の先端頂部に主郭、東下、南東下、南西下にそれぞれ腰曲輪を配し、北西背後を二重の堀切で遮断している。 尾根先側は巨石などがあるものの堀切などは見あたらない。
西麓にある実際寺は栗栖氏の菩提寺で、二代栗栖喜太郎のとき雪舟嘉猷による開山である。お寺は現在無住であるが、背後の山に「実際寺の開山塔」が残る。
国道191号線発坂トンネルの上が発坂城で、トンネルを西へ抜けて300m程進んだ所に北の寺領へ続く道の入口がある。これを北へ曲がって道なりに進んで行くと、右側に実際寺があり、さらに進むとトンネルがある。このトンネルの入口に登山道入口があり案内板が出ている。入口付近に駐車スペースがある。(地図)
登山道は山腹を緩やかに登っていき、途中鉄塔への分岐があるが、そのまままっすぐ進めば尾根上に出る。尾根上に出て右へ行けば発坂城、左へ登れば岩田城に至る。