築城年代は定かではない。
天正年間(1573年~1592年)の城主は角田氏であった。天正6年(1578年)里見義弘が没し、義頼と梅王丸による家督争いで義頼が勝利するも、これに不満をもった大多喜城主正木憲時は天正8年(1580年)に挙兵する。この憲時が葛ヶ崎城を攻め落とし、浜荻の外港を抑えるも、里見義頼によって奪還された。
葛ヶ崎城は外房に突き出すように東西2つの峰を持つ山に築かれていた。
東西2つの峰があるが、東側は山頂に小祠が祀られているのみで、曲輪と考えられる遺構は西峰のみである。
西峰も山頂部に小祠を祀っているが曲輪は造成しておらず、北の山腹に広い腰曲輪のような形で曲輪があり、これが主郭と考えられている。北麓のあたりが居館跡とされている。
西麓のお寺の墓地から取り付いた。
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