少弐政資・資元父子の墓が専称寺にある。
少弐政資は少弐氏十五代当主である。明応6年(1497年)大内軍の来襲によって大宰府を追われ弟の千葉胤資を頼って晴気城に逃げ込んだが、ここからさらに梶峰城の多久氏を頼って落ち延びた。しかしこれを拒絶されたため専称寺で自刃した。
少弐資元は少弐政資の三男で父政資と兄高経が大内氏に滅ぼされたことから、大友氏の支援によって少弐氏十六代当主となる。大友の支援を受けて勢力を回復し、大内氏と一時は和睦したが、天文5年(1536年)大内義隆の大軍により攻められ、資元は梶峰城で自刃した。
少弐政資・資元の墓は梶峰城の北麓にある専称寺の境内にある。