島津歳久は島津貴久の三男で、義久の弟である。歳久は豊臣秀吉の朝鮮出兵に対して病を理由に出兵せず、この時発生した梅北国兼の乱に歳久の家臣が多数居たことなどもあって秀吉からその責任を問われた。歳久が鹿児島から領地の宮之城へ戻る途中、義久の追っ手によって自害した。それが、この平松神社となっている心岳寺跡で、心岳寺は義久が歳久の菩提を弔うために建立した寺院であった。
島津歳久の墓の墓へ行くには国道10号線の上り車線(北向き)から向かう。国道沿いにわずかに路肩があり、そこに駐車して線路を渡ると平松神社がある。