築城年代は定かではないが寺井氏によって築かれたと云われる。
寺井氏は武田氏の家臣で、寺井伯耆守賢仲は京都に在住して守護雑掌として活躍した。
元亀元年(1570年)朝倉攻めのために熊川に入った織田信長を若狭衆が出迎えているが、このなかに寺井源左衛門がおり、若狭に入った丹羽長秀のもとで若狭衆として各地を転戦した。
その後の動向は不明で、天正10年(1582年)本能寺の変の後、武田元明とともに明智光秀に与して没落したとも伝えられるが、本能寺の変後も丹羽長秀のもとで活動していたともいう。
谷小屋城は南川の北岸、妙祐寺の西背後に聳える山に築かれている。
城は標高240m付近と標高200m付近の2ヶ所に遺構が存在する。
最高所となる曲輪I1は北から西に土塁を伴う小さな曲輪で、四方に伸びる尾根のうち曲輪II群のある東尾根を除く三方を堀切で遮断している。ただ、南へ伸びる根尾には南端部に切岸と削平を伴うI2がある。
東の遺構は西端のII1を主郭とし、西から北にかけて土塁があり、積み上げてはいないが石が点在している。虎口は東に開口し外側はスロープとなってII2に続く。
I1に続く西尾根は四重堀切5で、一番内側と一番外側が大堀切、なか二条は浅めの堀切である。曲輪II2から三方に伸びる尾根をそれぞれ堀切6、7、8で遮断するが、南の堀切8は西側が竪堀として伸びず、下方に小郭群IVがある。いずれの堀切も曲輪からやや離れた位置にあるのが特徴である。
曲輪群IIIは尾根の東端にあり、堀はないが、妙祐寺に続く南東尾根に小郭群を作り出している。
特に道はないが、妙祐寺の墓地から一段上にお堂跡?があり、そこから尾根伝いに踏み跡が付いている。
妙祐寺北側にある枝垂れ桜のある駐車場を利用させていただいた。
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