築城年代は定かではないが武田氏によって築かれた。
若狭国守護武田氏は安芸武田氏四代武田信繁の嫡男信栄が、永享12年(1440年)将軍足利義教の命により丹後・若狭守護職であった一色義貫を謀殺した功によって若狭国守護職を賜り、初代となった。
若狭守護職武田氏の館は信栄の頃は高浜にあったが、後に小浜へ移ってきた。若狭武田氏は背後に聳える後瀬山城を詰城とし、丹後の一色氏と度々戦った。
永禄11年(1568年)武田元明は越前の朝倉義景の侵攻を受けて敗れ、元明は朝倉氏に連れられ越前の一乗谷に連れて行かれたが、その後もこの館には隠居していた信豊が居た。天正元年(1573年)その朝倉義景も織田信長によって滅ぼされ、武田元明は解放され若狭へ戻ることを許されたが、若狭は信長の家臣丹羽長秀に与えられ、元明はわずか三千石を与えられただけであった。天正10年(1582年)本能寺の変によって織田信長が討たれると、武田元明は明智光秀に荷担したが、その光秀も天王山の戦いで敗れ、武田元明は丹羽長秀と羽柴秀吉に近江国海津へ呼び出され自刃を命ぜられ、若狭武田の本流は滅亡した。
武田氏館は後瀬山城の北麓、現在の空印寺の一帯に築かれていた。かつてはここに小学校があり、今は移転して広く空き地となっている。
館の規模は一辺約100m四方程で、堀や土塁が巡っていたようであるが、現在はほぼ詳説している。