三丘嶽城は島田川西岸に聳える標高318.8mの城山山頂に築かれている。
山頂から南北を主軸とする曲輪群と東下から北東へ連なる曲輪群、南に連なる曲輪群で構成されており、石積が所々に残っている。
主郭は山頂にあり、北に一段、南へ三段の曲輪がある。南北を主軸とするこの曲輪群は巨石群を有効に利用した曲輪で、山頂の南にある石には建物の柱を置いたと見られる加工が残っている。
主郭の東下からは北東に伸びた尾根と南の尾根に曲輪群がある。
北東の曲輪群は北側に竪堀状に削り落とした竪堀と土塁がある他は、先端の堀切まで堀はなく、広い削平地が段々と連なっている。北東先端の標高270m付近に二条の堀切があり、城内側が深く、外側は浅い堀切になっている。その先は細尾根になっているのでこの辺りが北端と思われる。
東下から南へ伸びた曲輪群は他の曲輪群に比べ石積が多いが小段が連なる。南端は薮が深く確認できていない。
主郭の西下に小段と堀切が一条あるが、西の平家ヶ嶽に至る尾根は細尾根にはなっているものの、堀切などの防御施設はない。
城山の南麓にある曹洞宗貞昌寺は三丘嶽城の大手門があった辺りともいわれ、関ヶ原合戦後に防長二カ国に減封となった毛利氏の家臣で、安芸国生城山城主天野元政(元就の七男)がこの三丘へ移ったときに居館を構えた所という。その後、元政は毛利姓に復姓して右田へ移り、替わって一門筆頭の宍戸広匡が三丘へ移っている。