築城年代は定かではないが戦国時代に天野興定によって築かれたと云われる。
天野氏は生城山城を居城とした生城山天野氏と金明山城を居城とした金明山天野氏があり、一族ではあるが別家である。
生城山天野氏は藤原氏で足立遠元の二男遠景が伊豆国田方郡天野荘を所領して天野氏を名乗ったことに始まる。遠景の四代孫にあたる天野遠顕の子顕義は母聖円尼より譲られた安芸国志房荘に下向した。
生城山天野氏の最初の居城は米山城で後に生城山城を築いて移ったとされるが、それを示す史料は残っていない。
生城山天野氏は顕義・顕氏・顕忠・顕房・顕勝・家氏・弘氏・興次とつづき、この興次の時代に志房荘一円の地頭職を譲り受けており、その弟元貞は金明山天野氏の元氏の養子となり、元行(後に元連)と名乗った。
天野氏は代々大内氏に従っていたが、興次の子興定のとき、尼子氏が安芸に侵攻すると、他の諸将とともに尼子氏へと移った。大永4年(1524年)大内義興・義隆父子は安芸に侵攻し、陶興房が米山城を取り囲んだ。この時毛利元就が仲介となり、天野氏は米山城を明け渡し和睦となった。その後、興定は陶興房とともに各地を転戦し戦功をあげ、間もなく米山城に復帰する。
大内義隆が陶晴賢に討たれると毛利氏に従って厳島合戦に従軍し、尼子氏の出雲国富田城攻めでも軍功をあげた。
永禄12年(1569年)天野元定は筑前国立花の陣で病を発し帰国後病没する。元定には嗣子なく毛利元就の七男元政を養子として迎えた。
関ヶ原合戦後防長二ヶ国に減封となった毛利氏に従い、はじめ周防国三丘、後右田へ移り一万六千石余りを領し、毛利氏に復姓して右田毛利氏の祖となった。