築城年代は諸説有り定かではない。平宗清による築城説、保元・平治の頃に悪七兵衛平景清による築城説などがある。
文治元年(1185年)源頼朝は佐々木高綱の弟義清を出雲守護職に任じ、義清は下向して富田城に入城した。その後、佐々木氏が代々出雲守護職となったが、南北朝時代に山名氏に敗れて、明徳の乱で山名満幸が没落すると京極佐々木高詮が守護職となった。
京極高詮は一族の尼子持久を守護代として下向させ、持久のあとは清定、経久と続いた。文明16年(1484年)尼子経久は京極政経によって守護代を罷免されて追放され、かわって塩冶掃部介が守護代となった。しかし、文明18年(1486年)元旦、経久は奇襲をかけて富田城を奪還し塩冶掃部介は討死した。
その後、尼子経久は勢力を拡大し京極氏から独立していく。 永正15年(1518年)経久の嫡男尼子政久は阿用城の桜井氏を攻め討死する。 享禄3年(1530年)経久の三男で塩冶氏の養子となっていた塩冶興久が反乱を起こした。 このとき出雲西部の国人衆や杵築大社(出雲大社)・鰐淵寺といった宗教勢力も塩冶氏を支援し、経久は苦戦した。
天文6年(1537年)経久は嫡男政久の子で経久の孫にあたる詮久(晴久)に家督を譲っている。天文9年(1540年)尼子晴久は大軍を率いて安芸の毛利元就の居城吉田郡山城を攻めたが、大内氏の援軍などによって敗れた。翌天文10年(1541年)尼子経久は没し、天文12年(1543年)には大内・毛利連合軍が大軍を率いて富田城へ攻め寄せた。大内軍は京羅木山へ本陣を進め尼子方と対峙するが、大内氏方に寝返っていた出雲国人衆が再び尼子方へ寝返ると総崩れとなった。このとき大内義隆の嫡男大内晴持は乗っていた船が転覆して没した。
天文23年(1554年)晴久は尼子家中随一の勢力を誇っていた新宮党の尼子国久・誠久父子を粛正する。永禄3年(1560年)晴久が没して義久が家督を継ぐと、大内氏を倒して勢力を拡大していた毛利元就が石見を席巻し、永禄8年(1565年)には富田城へ攻め寄せた。 この戦いで毛利方は御子守口から毛利元就、塩谷口から吉川元春、菅谷口から小早川隆景と三面から攻撃を加えたが、籠城軍は固く守ってこれを撃退した。毛利方はいったん洗合まで引き、軍備を整え再び富田城へ攻め寄せた。長期戦となる中、毛利軍の武将益田藤兼(包)の家臣品川大膳と山中鹿介幸盛によって川中島一騎討ちが行われた。永禄9年(1566年)富田城は兵糧が尽きて降伏開城、尼子義久・倫久・秀久兄弟は安芸へ連れられ、尼子氏は滅亡した。
富田城が毛利氏の城となると城代として安芸国金明山城主の天野隆重が入城した。 永禄12年(1569年)尼子氏の旧臣山中鹿介幸盛は京で出家していた尼子誠久の遺児を還俗させて勝久と名乗らせ、これを旗頭として尼子再興軍を興した。尼子再興軍は出雲の大半を奪還して富田城に攻め寄せた。このとき毛利の主力は九州の大友氏と戦っており、城内にはわずか数百の兵しかいなかったが、天野隆重の策略によって撃退した。
その後、毛利氏の城代から吉川元春の所領となり、吉川広家のときには出雲国・伯耆国・隠岐国・安芸国に十四万石の所領を得て富田城を居城とした。慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で敗れると防長二カ国に減封となった毛利氏に従い、周防国岩国へ転封となった。
かわって遠江国浜松より堀尾吉晴・忠氏父子が二十四万石で富田へ入封した。慶長9年(1604年)忠氏が早世すると忠氏の子忠晴が家督を継いだが、まだ幼かったことから吉晴が後見人となった。慶長12年(1607年)には松江城の築城を開始し、慶長16年(1611年)完成して居城を移し富田城はその支城となった。
富田城は標高ら183.9mの月山を中心として、飯梨川、南の塩谷、北の新宮谷に囲まれた山に築かれている。富田城は大きく分けて山頂の主郭部、山中御殿平から北西側の尾根に展開された曲輪群、主郭から北東側に展開された曲輪群から成る。
主郭部は、北西から南東に伸びた山頂部に築かれており、大堀切で遮断された南東側に本丸、北西側に二ノ丸・三ノ丸・袖ヶ平がある。 七曲がりの道を上り詰めた所が袖ヶ平で、三ノ丸の石垣は低い石垣を多段に重ねたもので、米子城にも似た構造の石垣がある。三ノ丸は長い曲輪で、南東端が一段高く二ノ丸とされる。三ノ丸の北西端、二ノ丸の南西側に虎口が付いている。本丸は南東端に勝日高守神社が鎮座している。本丸は石垣が余り使われておらず、神社の背後に石垣が残されている。
山中御殿平(さんちゅうごてんなり)は富田城の見所の一つで、北に菅谷口、南に塩谷口、北西に大手の虎口が開く。菅谷口は桝形で櫓台があり、そこから北へ伸びたる石垣は多聞櫓があったと思われる。大手虎口は石垣が崩されている部分もある高い石垣造となっている。南の塩谷口は平入虎口であるが、入口は狭く、入ると左右の階段を上る構造になっている。
山中御殿平の北にあるのが花ノ壇で、堀切で遮断された南北二つの曲輪があり、建物がある。この辺りも低い石垣によって固められている。
花ノ壇の北にあるのが奥書院、更に太鼓壇、北端の千畳平と続く。奥書院は慰霊碑が建つ。太鼓壇は山中鹿介幸盛像がある所で、北端部に小高い土盛りがあり、その上に尼子氏碑が建っている。北端の千畳平は尼子神社があり、北面には高い石垣、櫓台が残っている。
谷を挟んで南にある巌倉寺の尾根も曲輪があり、北の寺一帯には山中御殿平のような石垣がある。南の山中御殿平へ続く尾根には削平地が広がり、その中に堀尾吉晴の墓と山中鹿介幸盛公供養塔がある。
主郭部から北東の十二所神社側に広がる山には古い時代の曲輪群が残る。主郭部に近い曲輪には堀切に土橋が架かり、l字に土塁の付いた曲輪があるが、大半の曲輪には土塁はなく、堀切によって遮断される形で各尾根に遺構が広がっている。
富田城周辺には尼子氏、毛利氏、堀尾氏に関連する墓などが点在しており、併せて紹介する。
・尼子経久像。道の駅の川向かいにある三日月公園にある。(地図)
・尼子清定・経久墓。洞光寺にある。(地図)
・尼子晴久墓。南側の塩谷にある塩谷公会堂の上にある。地図)
・塩冶興久の墓。道の駅から富田城への入口にある。(地図)
・塩冶掃部介(荒法師)の墓。新宮谷の南側、十二所神社入口から東へ進んだ所にある。(地図)
・毛利元秋の墓。新宮谷の北。新宮谷城館群を参照。
・堀尾吉晴の墓。巌倉寺境内の奥。(地図)
・堀尾忠氏の墓。新宮谷の南側、十二所神社入口から東へ進んだ所の南側に入口があり、少し山を登った尾根上にある。(地図)
道の駅「広瀬富田城」に安来市立歴史資料館があり、富田城に関連した展示がある。ここから塩冶興久の墓を経由して登る遊歩道がある。
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