築城年代は定かではないが鎌倉時代初期に片田八郎義隆(堅田とも)によって築かれたと伝えられる。義隆は那須資隆の八男で仁治年間(1240年〜1243年)に片平城を築いて移り、片平氏の祖となった。
応永21年(1414年)頃、那須氏は沢村氏を継いで沢村城主となっていた資重と、福原城の資之(嫡流)との間で不和となり、資之は沢村城を攻め落とし資重は烏山城に逃れた。これによって那須家は福原城を本拠とする上那須氏と、烏山城を本拠とする下那須氏に分裂した。
上那須の那須資親には男児なく、陸奥国白河城主結城義永の二男資永を養子に迎えた。ところがその後、資親に実子資久が生まれたことが悲劇の始まりとなる。 永正11年(1514年)資親は実子資久を後継者にするように遺言して没した。これをうけて大田原胤清・金丸肥前・大関・芦野・伊王野といった面々が資永を討つために決起し、300騎で福原城に攻め寄せた。資永は急ぎ軍勢を掻き集めたがわずか50騎しか集まらなかった。資永は手薄になっている資久の居城亀山城に腹心関十郎ら数名を送り、資久を捕縛して福原城に戻ると資久を刺殺し火を放ってみずからも自刃して果てた。これにより上那須家は断絶となり、那須家は下那須家に統一された。
永正13年(1516年)烏山城主那須資房は子の政資を亀山城主とした。その後政資は白河結城氏の女を娶り家督を継いで烏山城主となったため亀山城は廃城となった。
亀山城は片田小学校の南側にある小山の山頂に築かれている。
単郭の城で山頂に周囲に土塁を巡らせた曲輪がある。南東隅が石切によって欠けているがほぼ完存している。土塁の西端部分に社が祀られていたようで基壇が残っており、北東尾根先からここへ道が残っている。その途中にはいくつかの小段があり、堀切ともみおる窪地がある。東へ続く尾根には堀切が見あたらないが、この辺りは石切場となっていて大きく削り取られている。
片田小学校を目指す。県道298号線と県道343号線の片田交差点から少し南へ歩いた辺りに竹藪があり、その中を少し登ると山道が付いている。これを登ると山頂にたどり着く。