築城年代は定かではないが応永年間(1394年〜1428年)に金丸氏によって築かれたと云われる。金丸氏は那須氏藤の二男資国が金丸を分知され根小屋館を築いて居城としたことに始まる。
応永21年(1414年)頃より主家那須氏は福原城を居城とした上那須氏と、烏山城を居城とした下那須氏に分かれて争っていた。金丸氏は上那須氏に従っていたが、永正年間(1504年〜1521年)に北に隣接する亀山城主那須資久と白河氏より養子に入っていた資永との争いが始まり、金丸氏は大関氏とともに資久を補佐していた。永正11年(1514年)福原城主那須資永が資久を捕縛して福原城に連れ去り、資久を刺殺後、自らも自刃して果て上那須家が断絶するという悲劇の舞台となった。詳細は亀山城を参照。
天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐に参陣した大関氏が所領を安堵されると、金丸義胤はその家臣となり、五百石を領して麓に居館を構え金丸要害城は廃城となったという。
金丸要害城は亀山城とは尾根続きの南の山に築かれている。
空堀で区画した曲輪が南北に連なり、北から東側面にかけて横堀が巡らされている。 北端は南北に細長い曲輪で、空堀を挟んで南には比較的広い曲輪があり、西側を中心に土塁が残り、北側には櫓台状の高まりの上に祠が祀られている。南側にも空堀を隔てて曲輪が続いている。予想に反して規模も大きく遺構も明瞭に残っている。
片田小学校を目指す。県道298号線と県道343号線の片田交差点から東へ進んでいくと右側に学校園館山の看板がある。これに従って林道を進んで行くと東側の横堀に達する。