築城年代は定かではないが、貞治元年(1362年)芳賀高貞が築き、天正5年(1577年)頃に芳賀高継によって改修された説が有力とされる。芳賀氏は代々宇都宮氏の重臣で清原氏を祖とする。
芳賀氏ははじめ御前城を居城としていたが、後に芳賀城(真岡城)を築いて居城を移した。豊臣秀吉による小田原征伐の後、宇都宮氏は所領を安堵されたが、慶長2年(1597年)宇都宮国綱の時、突然豊臣秀吉によって改易された。これにより芳賀氏もその所領を失った。江戸時代には、陣屋が置かれ、天領になった後は代官所が設けられた。
和暦(西暦) | 事象 |
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慶長6年(1601年) | 浅野長政の三男長重が二万石で入封。 |
慶長16年(1611年) |
浅野長重は長政の隠居領であった常陸国真壁郡内五万石を受け継ぎ常陸国真壁に移る。 越後国蔵王堂より堀親良が一万二千石で入封。 |
元和4年(1618年) | 美濃国山県郡内に五千石が加増され一万七千石となる。 |
寛永4年(1627年) |
堀親良は下野国烏山へ転封。 稲葉正成が二万石で入封。 |
寛永5年(1628年) | 稲葉正成が没し稲葉正勝が継ぎ自領二万石と合わせて四万石となる。 |
寛永9年(1632年) |
稲葉正勝は相模国小田原へ転封。 以後、小田原の飛領地となる。 |
天明3年(1783年) | 天領となる。 |
現在真岡小学校の建つ丘陵が城址である。北から南に向かって本丸・二の丸・三の丸があったという。
周囲を歩いて一周してみたが、北側と西側あたりはまだ城跡の雰囲気が残っている。
真岡小学校の南の校門の所に真岡城の案内板があり、その南にある城山公園の所に真岡陣屋の案内板が設置されている。
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