築城年代は定かではない。佐々木六角氏の一族和田氏の城とされる。
永禄11年(1568年)織田信長が近江に侵攻したとき、観音寺城主の佐々木六角氏は箕作山城や和田山城などに守将を置いて守りを固めさせたが、信長は周辺の諸城を無視して箕作山城を攻め落としたため、六角氏は観音寺城を脱して甲賀へ逃れたという。
和田山城は標高180.2mの和田山山頂に築かれている。
和田山城は和田山山頂に築かれた単郭の小さな城である。曲輪の規模は非常に小さいがその周囲を高土塁が巡り、北と南にそれぞれ櫓台を備えている。虎口は南側で櫓台を回り込んで入る構造であるが、主郭となる曲輪の内側部分にも土塁による食い違い虎口があり、さらに南側には堀も備えている。曲輪の規模からは想像出来ない遺構であり、ただでさえ狭い曲輪がこの虎口によってさらに半分ほどになっている。
尾根を遮断する堀切は存在しないが、北の櫓台下に空堀があり西側を覆う。その下方には二条の竪堀があり、北側や北東側にも複雑なデコボコがあり、竪堀がさらにあったようにも見えるが、後世の改変かはっきりとした地形としては読み取ることができない。西側側面には帯曲輪と竪堀、竪土塁状の地形があり、側面を防御しているが、東側側面には見あたらない。
南麓にある和田神社から遊歩道があるが、この道は城内に入らず、そのまま別方向に伸びている。
最寄り駅(直線距離)