築城年代は定かではないが永禄年間(1558年〜1570年)に林與次郎左衛門員清によって築かれたと云われる。
永禄年間(1558年〜1570年)頃は小谷城主浅井氏に従っていた。元亀元年(1570年)浅井長政は織田信長を離反して朝倉義景とともに志賀郡へ侵攻し、宇佐山城などを攻めたが、その後は一度和睦となり高島郡へ退いた。元亀3年(1572年)織田信長が朝倉・浅井軍を田中の城へ追い込むと、打下城主の林員清は信長に降り、信長は打下城を陣所として朝倉・浅井軍を攻めた。
天正3年(1575年)林員清は越前国北之庄にて信長によって切腹を命ぜられている。
その後は磯野員昌の養子となっていた織田信長の甥信澄が、天正6年(1578年)信澄が大溝城を築くまで居城としていたとも伝えられる。
打下城は近江高島駅南西の標高374mの山頂に築かれている。 城は大きく中主郭、北主郭、南郭の曲輪群に大別されている。
最高所にあるのが中主郭で、現在の登山道は主郭の西尾根に登り、主郭は背後の堀を越えて来るルートになっている。中主郭は南北二段の曲輪で南背後に土塁が付いており、北東側に虎口がある。虎口の外側には石積かあり、通路は屈折するように付いている。背後の尾根は大きな横堀によって遮断しており、北側はそのまま竪堀へと変化して落ちている。西尾根は連続堀切であったのか北側へ伸びる竪堀部分が連続したものとなっている。
中主郭の南東尾根先に位置するのが南郭で、西側に土塁が付き、南西下から南側を横堀で遮断している。東尾根にも曲輪があり、北側に土塁が付いて先端部分に虎口のような開口部がある。
中主郭の虎口から北へ降りた標高330m付近にあるのが北主郭で、中主郭から続く尾根には小段が連続して続いており、北主郭への虎口は平入で土橋になっている。北主郭の周囲は土塁が巡るが歪な形状で、北東側山腹に不鮮明な畝状竪堀郡が付いている。
近江高島駅から西へ進んでいくと日吉神社がある。この神社から登山道が付いており道標に従って登れば中主郭に達する。
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