天正6年(1578年)織田信澄によって築かれたと云われる。 織田信澄は織田信長の実弟織田信行の子で、津田信澄とも称した。
元亀年間(1570年〜1573年)に信長は浅井長政を滅ぼして高島七頭も降すと、高島郡には磯野丹波守員昌が入部し新庄城を居城とした。信澄はこの員昌の養子となっていたが、天正6年(1578年)員昌は信長の勘気を被って追放されると所領は信澄が継いだ。
天正10年(1582年)織田信長が本能寺の変で倒れた際、信澄は四国征伐軍の副将として織田信孝に従って大坂にいたが、信澄の正妻が明智光秀の娘であったことから内通が疑われ、織田信孝・丹羽長秀の軍勢に急襲され摂津国野田城にて討たれた。
信澄の後は丹羽長秀の所領となって代官として植田重安が在城した。 天正11年(1583年)賎ヶ岳合戦後に丹羽長秀が越前国府中城に移封となると、加藤光泰が入部した。天正13年(1585年)には加藤光泰は美濃国大垣城へ移り、代わって生駒親正が城主となるが、親正も翌天正14年(1586年)に伊勢国神戸城へ移封となった。
その後は再び秀吉の直轄領となっていたが、天正15年(1587年)京極高次が入部した。天正18年(1590年)には織田三四郎が城主となるが、再び秀吉の直轄領になって吉田修理が代官を務め、最後に文禄4年(1595年)岩崎掃部佐が城主となった。
慶長8年(1603年)に大溝城は破却され水口岡山城に部材が転用されていたと云われる。
江戸時代に入り元和5年(1619年)伊勢国上野より分部光信が二万石で入封し大溝藩となった。大溝藩は城主格ではなかったため、廃城となっていた大溝城の三の丸付近に大溝陣屋を構え、以後代々続いて明治に至る。
大溝城は現在の高島総合病院の東側に本丸が築かれ、南が二の丸、病院付近は三の丸であったといわれる。遺構は本丸に残る天守台のみである。
陣屋が置かれたのは三の丸付近で現在の病院付近となり、分部神社もある。
高島駅の東側にある高島総合病院の入口脇に大溝城への道標があり、道なりにたどれば天守台に至る。
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