築城年代は定かではない。
蒲生氏の支城であったが、弘治年間(1555年〜1558年)に島津氏と蒲生・祁答院氏らによって争われていたが、弘治3年(1557年)島津貴久がこれを平定して梅北国兼を置いた。
山田城は山田川東岸の城集落にあり、集落の北にある標高160mの山に築かれている。
大手となる南西から入るシラス台地の切れ目がそのまま空堀の役目を果たし、城の搦手とされる東の尾根まで遮断して続いている。このシラスの巨大空堀の内側に平段を重ねた山城であり、群郭式ではなく連郭式の山城である。
主郭は中央一段小高くなった所にあり神社が祀られていたようで基壇が残る。この部分は狭く櫓台とも思えるほどの広さである。この曲輪を中心に東に一段、西に二段の曲輪があり、南の腰曲輪が虎口ルートとなっている。西からさらに北へ続く尾根に堀切を挟んで曲輪があり、北端は大堀切で遮断している。
城集落から入る道があるが、入口には何も書かれていない。さらに堀底から山上に上がるルートも特に道標が出ていないので、ルート選択をミスすると登れない。
最寄り駅(直線距離)