保安4年(1123年)蒲生舜清によって築かれたと云われる。 蒲生氏(かもう)は、豊前国宇佐神宮の留守職藤原教清と宇佐大宮司の女との間に生まれた舜清が、神領管理のために大隅国垂水を訪れ、保安4年に蒲生・吉田の惣領職に転じて蒲生城を築いて蒲生氏を名乗ったことに始まる。
蒲生氏は代々蒲生城を居城として続いたが、十八代蒲生範清のとき、渋谷祁答院良重と結んで島津貴久と戦った。弘治2年(1556年)島津貴久は蒲生氏の家臣中村氏の籠もる松坂城を攻め落とし、蒲生城に軍勢を推し進めた。蒲生氏の援軍として菱刈重豊が大軍を率いて駆けつけ北村に陣取り持久戦となったが、島津義弘が陣頭に立って奮戦するなど激闘となり、菱刈重豊が自刃して菱刈軍は壊滅、籠城していた蒲生氏も城に火を放って祁答院氏を頼って落ちた。
蒲生氏の後は比志島美濃守が地頭として入部したという。
蒲生城は蒲生川南岸の標高162.5mの龍ヶ山に築かれており、山頂付近に本丸、北尾根の先端部分に二の丸、麓に三の丸を配し、その周囲にも東の城、岩の城、新城、倉の城など複数の城(曲輪群)で構成されている。蒲生城は南九州に多い群郭式の山城というよりは、一般的な連郭式の山城に近い印象を受けるが、垂直に切り立った山肌や切岸面などはシラス台地特有の形状を見せている。
現在は蒲生城山公園(山坂達者の森)となり、二の丸一帯と桜公園が良く整備されている。本丸までは舗装された遊歩道があるが内部は薮化している。 本丸の最南端は高土塁があり、その背後は堀切と土橋が架かりその奥にも曲輪(倉の城?)がある。この南端の曲輪から北に向かって階段状に削平地が続いており、薮化していてなかなか確認しづらいが、東側と西側に高土塁があり、部分的に虎口が開いている。
麓から登山道があるようですが、西側の県道25号線から城山公園まで車道があり、二の丸一帯に広い駐車場がある。
最寄り駅(直線距離)