築城年代は定かではないが南北朝時代に樺山氏によって築かれたと云われる。
天文17年(1548年)国分清水城の本田薫親を攻め落とした島津忠良・貴久父子は樺山長久の生別府城に入り、清水陥落の祝いとして長浜と改めたという。樺山信久の子幸久は島津忠良の加冠により元服し後に忠良の娘を娶って樺山善久と名乗った。善久と忠良の娘の間に生まれた嫡男忠副は、弘治3年(1557年)に戦で受けた傷がもとで亡くなったという。
城は鹿児島湾に面した高台に築かれている。現在は城跡は開墾されて畑となっており、狭い車道が山の中を走っているが道幅も狭く車を置くスペースが見付からない。 城跡も大半が開墾されて、手元の資料でも残存状況が悪いとされている。今では開墾されていた畑も一部荒廃して草が生い茂っている。