築城年代は定かではないが南部氏によって築かれたと云われる。 三戸南部氏は甲斐国巨摩郡南部郷出身で、文治5年(1189年)奥州平泉の藤原氏討伐の戦功によって源頼朝より糠部の地を賜り、この地に入部したという。
八戸浦に上陸した南部光行は、相内館から平良ヶ崎城へと移りこの地に根付いた。 室町時代には南部氏宗家の地位を確立し、奥州屈指の大名に成長する。天文8年(1539年)家臣の赤沼備中による放火で聖寿寺館は焼失、その後三戸城へ居城を移し、聖寿寺館は本三戸城と呼ばれるようになった。
聖寿寺館は馬淵川北岸の台地の上に築かれている。聖寿寺館は南部氏の菩提寺である聖寿寺がすぐ北にあることからこう呼ばれており、三戸南部氏の居館であった。東には佐藤館、さらに政庁とされる平良ヶ城があった。さらに南には小向館、馬場館があり、広大な城域を誇る。
聖寿寺館は小向沢に面した段丘の南西端にあり、東西約350m、南北約300m程の規模である。現在はりんご園となっている。北側の道路に面して空堀が残り、『聖寿寺館跡』の標柱が建っている。東の堀は現在は道路になっている。パンフレットによれば、南にも堀があり、その西端に虎口が残っているという。
聖寿寺館の北側に南部利康霊屋のある正寿寺がある。ここには26代南部利直霊屋、27代南部信直夫妻の墓所、赤石館主桜庭安房の墓などがあるのだが、事前予約が必要で敷地にすら入ることができないようである。
霊屋の前に見学者用の駐車場がある。パンフレットは聖寿寺館の標柱のある敷地に建っている民家の方に頂いた。
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