むさし・おしじょう

武蔵・忍城
城郭放浪記

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忍城の写真 写真館(24枚)
史跡指定
県指定史跡
  形態  
平城
  歴史  

延徳2年(1490年)成田親泰によって築かれた。 天文22年(1555年)北条氏康によって攻められたが、これを退けた。

永禄2年(1559年)長尾景虎が関東に進出、景虎は容易に落城しないことを察知し城下を焼き払った。 これに対して成田長泰は末子を人質として景虎に差し出し、その配下に降った。 翌永禄3年(1560年)再び長尾景虎が関東に進出、鶴岡八幡宮にて上杉憲政から関東管領を譲り受け、上杉政虎と名乗った。 この席で成田長泰は、政虎に辱めを受け忍城に引き上げ、上杉氏に叛き北条氏に身を寄せた。

天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐では、石田三成等が押し寄せたが攻めあぐねた。 三成は羽柴秀吉の備中国高松城の水攻めに倣い、堤防を築いて水攻めを決行した。しかし、堤防は崩れ忍城は落城せず、開城したのは小田原城が降った後であった。

徳川家康が関東に入部すると、松平家忠が一万石、その後四男忠吉が十万石で入部した。

・慶長5年(1600年)松平忠吉は尾張国清州に五十二万石で転封
・寛永3年(1626年)深谷より酒井忠勝が五万石で入封、寛永4年(1627年)川越へ転封。
・寛永10年(1633年)相模より松平信綱が三万石で入封。
・寛永16年(1639年)下野国壬生より阿部忠秋が五万石で入封、元禄7年(1694年)正武の時、加増され十万石となるが、文政6年(1823年)陸奥国白河へ転封。
・文政6年(1823年)伊勢国桑名より(奥平)松平忠堯がから十万石で入封、以後4代続き明治に至る。

  説明  
現在は郷土博物館の近くに復興された御三階櫓と時の鐘櫓がある。 遺構はほとんど消滅しているが、変電所付近に本丸土塁が残る他、諏訪神社、東照宮付近にも土塁や濠の跡がある。
天気予報が雨ということで、急拠関東しかも埼玉県まで来てしまったが、全く予定していなかったので、日本城郭大系すら持ってきておらず、しかも郷土博物館は休館日...。
  城主  
成田氏,松平家忠,松平忠吉,松平信綱,阿部忠秋,阿部正能,阿部正武,阿部正喬,阿部正允,阿部正敏,阿部正識,阿部正由,阿部正権,松平忠堯,松平忠彦,松平忠国,松平忠誠,松平忠敬
 所在地 
埼玉県行田市本丸
付近の城址
4.4km 武蔵・成田氏館
6.1km 武蔵・須賀城
8.4km 上野・舞木城
9.3km 武蔵・羽生陣屋
9.6km 上野・佐貫館
9.7km 武蔵・羽生城
9.8km 武蔵・箕田の城山
9.9km 武蔵・多賀谷氏館

※距離はおおよその直線距離です。
海・川・山などの地形および交通手段は全く考慮していません。



最終訪問日
2007年5月
  建物  
御三階櫓写真 御三階櫓(復興 櫓)
所在地: [地図]城内(埼玉県行田市本丸)

北谷門写真 北谷門(移築 城門)
所在地: [地図]總願寺(埼玉県加須市不動岡2)
市指定文化財
伝進修館表門写真 伝進修館表門(移築 城門)
所在地: [地図]城内(埼玉県行田市本丸)
天保3年(1832年)建立
忍藩藩校「進修館」の表門と伝えられ、一度移築されたものを再度移築修復したもの

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