築城年代は定かではない。はじめ高田城三浦氏の支城であったが、天正元年(1573年)毛利方の城となり、楢崎元兼が城主となった。
楢崎元兼は備後国 楢崎城を本拠とする国人領主で、三村元親の妹を正室に迎えていた。
天正2年(1574年)三村氏は織田信長と結んで毛利から離反したが、楢崎氏は毛利方にとどまった。三村氏が滅亡して同じく織田方であった高田城三浦氏も滅亡すると、天正4年(1576年)高田城主となって移った。
月田城は月田駅の南東に聳える標高419mの山に築かれており、現在は登山道が整備されている。
大規模な山城で、東端最高所の妙見宮が祀られているところが主郭となり、概ね曲輪群I、II、IIIの3つのブロックに区画できる。
主郭となる曲輪群Iは妙見宮を祀るI1から西に伸びたI3、I2まで長く伸び、その周辺に腰曲輪I4、I5、I6、I7を備える。
東端から北へ伸びた尾根を遮断する堀1は、I5直下の大堀切1の先に細尾根があり、その先をさらに二重堀切で遮断する。東西両側面は急坂であるが、西側面のみ大規模な三条の竪堀を設け、堀切から伸びる竪堀と合わせて6条の畝状竪堀群を形成している。
主郭から南へ伸びた尾根は二重堀切2と堀切3の3条の堀切で遮断する。その先は自然尾根が続いているが、南端に切岸加工されたところがある。
主郭部と堀切4を挟んで西にあるのが曲輪IIで、西側に低い土塁を設けている。曲輪IIIに続く西尾根から南側面にかけて堀切と竪堀を設けている。
西端の曲輪群IIIは最高所に塚のようなものがあり、そこから南北に伸びる尾根に段曲輪を連ねている。鉄塔跡が二ヶ所あって改変を受けているが、堀切はなく、曲輪群I、IIと比べて古い遺構であり、改修前の月田城と考えられる。
登山口は手谷集落の谷の奥に妙見堂の脇にあり、そこから墓地に続く道を進んで右側の木橋を渡って登る道が参道となる。
登りで利用したのは林道を奥に進んで砂防ダムの先にあるコンクリート橋を渡ったところの尾根が続く山道で、この道は切岸を経て堀切3に至る。
最寄り駅(直線距離)