築城年代は諸説あるが延文から嘉慶あたり(1360年〜1388年)に三浦貞宗によって築城された。
天文元年(1532年)三浦貞国が没すると尼子氏部将の宇山久信が侵攻し落城する。 永禄2年(1559年)三浦氏とその旧臣によって攻撃し落城、三浦貞勝が城主となる。 永禄8年(1565年)三村氏と毛利氏によって落城するが、翌9年三浦貞盛と旧臣が奪還する。 永禄12年(1569年)尼子勝久が美作に入ると三浦氏もこれに従ったが毛利氏の部将香川春継によって落城する。 元亀元年(1570年)三浦氏は尼子氏に援軍を求めまたもや復城するが、 天正4年(1576年)再び毛利氏の侵攻にあった三浦氏は浦上氏に援軍を求めるが得られず宇喜多氏の和議によって開城する。
その後、毛利の家臣楢崎元兼が入城するが、備中高松城の合戦によって毛利氏と織田氏の和睦が成立すると、宇喜多氏の所領となり家臣が在城した。関ヶ原合戦(1600年)によって宇喜多氏が改易となると、岡山に入部した小早川秀秋の家臣が在城、小早川氏が改易となると、津山藩森忠政が城番を置いたが、森氏が改易となると廃城となった。
明和元年(1784年)三河国西尾から三浦明次が入り勝山藩二万三千石で入部し、明治まで続いた。この三浦氏は高田城の麓に藩庁を構え、廃城となっていた高田城の一部を改修して、二の丸に櫓などを築いたが、山上の整備はそれほど進まなかったようである。
高田城は旭川に面した標高312mの城山に築かれている。南の太鼓山には出丸があり、南西麓の市役所付近に三の丸、速日神社の辺りに勝山藩の藩庁が置かれた。
山頂の本丸を中心に北東、北西、南の三方の尾根に曲輪を配しており、東尾根は特に堀切などを設けている。西の麓近くにある「小屋ノ段」は勝山藩のときに土塀を普請した記録が残されている曲輪である。
南山腹のグラウンドが二の丸で、勝山藩時代の調練場であった。このグラウンドの西端に櫓台があり、西側面に高石垣が残っている。
麓の市役所付近が三の丸で、発掘調査によって井戸や石積、屋敷跡などが検出され、代々高田城の居館があった地と推測されている。
椎の木御殿(現存 その他)
二の丸とされるグラウンド付近に駐車可能で、そこから遊歩道があり一周することができる。麓は市役所の駐車場が利用できる。
最寄り駅(直線距離)