築城年代は定かではないが文永年間(1264年〜1275年)に周布兼定によって築かれたと云われる。 兼定は益田兼季の二男で、石見国周布郷一帯の地頭職を譲られ周布氏を称した事に始まる。
周布氏は比較的早くより惣領である益田氏から独立した地位にあったと云われ、南北朝時代には益田氏が北朝方となったのに対し、周布氏・三隅氏・福屋氏などは南朝方として活躍した。
延元2年(1337年)周布兼宗は三隅兼連とともに長門国賀年城を攻めた。延元4年(1339年)北朝方の石見国守護上野頼兼が豊田城の内田致景を攻めると、兼宗は豊田城に救援に向かっている。
永禄12年(1569年)尼子再興軍が挙兵すると、かねてより不満を抱いていた三隅隆繁・国定兄弟は当主周布元兼が不在の中、周布晴氏を誘って毛利に反旗を翻した。この反乱軍は吉川元春の二男元氏を大将とする軍勢によって鎮圧された。周布元兼は天正6年(1578年)播磨国上月城の戦いで討死している。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で西軍が敗れ、毛利氏が防長二カ国に減封となると、周布氏もこれに従い廃城となった。
周布城は周布川北岸に聳える標高82mの鳶巣山に築かれている。 西麓にある聖徳寺は周布氏の菩提寺で墓碑があり、ここに案内板が設置されている。
主郭は山頂にあり、大きな櫓台程度の大きさの土壇が中央にあり、ここが主郭と云われる。北側を覆う平段が二ノ丸、南に太鼓楼、北下に三ノ丸を配し、西尾根に西郭を配している。
見所は北側山腹に広がる畝状竪堀群と東尾根を遮断している大堀切で、大堀切の南端部は二重になった大きな竪堀が落ちている。
国道9号線から周布川沿いの土手道を走ると聖徳寺がある。この聖徳寺に縄張図入りの案内板があるので先に見ておくのがよい。城へは右奥の墓地から登っていくことができる。
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