ひご・ふるふもとじょう

肥後・古麓城
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古麓城の写真 写真館(63枚)
史跡指定
市指定史跡
  別名  
八代城
  形態  
山城(141m/130m)
  歴史  

築城年代は定かではないが内河義真によって築かれたと云われる。 隠岐を脱した後醍醐天皇を伯耆国船上山に迎え、倒幕の兵を挙げた名和長年は、鎌倉幕府が滅亡すると、その功により嫡男義高に肥後国八代庄の地頭職が与えられた。 翌建武2年(1335年)一族の内河義真が代官として八代に下向し、南北朝初期の争乱により城を築いた。これが八代城で現在古麓城と呼ばれている。

「太平記」には建武3年(1336年)に北朝方の一色範氏が内河の城(八代城)を攻めたことが記されている。

長禄3年(1459年)名和義興が十六才のときに殺害されると、幸松丸は元服して名和顕忠と名乗った。文明年間(1469年〜1487年)になると名和氏は相良氏と敵対するようになる。文明14年(1482年)名和顕忠が高田に侵攻するが相良為続に撃退され、翌15年には相良為続が逆に八代へ攻め入り古麓城は落城した。相良氏は一度退いたが文明16年に再び八代に侵攻してくると名和顕忠は古麓城を捨てて逃れた。

明応8年(1499年)相良氏は豊福で菊池能運と戦って敗れると、勢いに乗じて八代へ侵攻した菊池軍に追われ、八代の地は再び名和氏が復帰した。

文亀4年(1504年)相良長毎が八代へ侵攻すると、名和顕忠は古麓城を明け渡し、木原城を経て宇土古城へ移った。天文3年(1534年)には相良義滋(長唯)によって城の拡張と城下町の整備が行われ、自ら移って居城とした。

豊臣秀吉の九州征伐の後、肥後に入封した佐々成政は肥後国人一揆により改易となり、代わって加藤清正と小西行長が入封する。八代は小西行長の所領となり、古麓城は廃され麦島城が築かれた。

  説明  

古麓城は球磨川河口の八丁山から北西に派生した山に築かれている。 古麓城(八代城)は八町嶽城・鷹峰城・鞍掛城・丸山城・新城・勝尾城・飯盛城の総称と云われている。

今回は春光寺から稲荷神社、奥の院を経て新城に至る遊歩道を歩いた。実は春光寺の横から更に谷奥へ続く道を行くと駐車場があり、そこに縄張図入りの案内板が設置されていたのだが、気づかずに歩いた為、多くの遺構を見落としている。

新城は唯一公園化されており、一段高く切岸加工された主郭と北から西側にかけて拡がる二郭、北東尾根に馬場状に長く連なる三郭から成る。三郭の根元と中間地点に明瞭な堀切が二条残っている。主郭背後から南の鷹峰城へと続く尾根は、それほど明確な加工はされていないが、堀切らしき窪地が二・三条ある。

麓の春光寺は八代城代松井氏の菩提寺で、八代城の永御蔵番所が移築現存している。(写真は八代城を参照。)

  城主  
名和氏,相良氏
  案内  

北西麓にある春光寺の脇から更に谷奥へ続く道を進むと駐車場があり、ここに案内板が設置されている。遊歩道はここから、北側麓にある中宮山悟真寺と懐良親王御陵へと続いている。

 所在地 
熊本県八代市古麓町
付近の城址
0.1km 肥後・古麓城(鞍掛城)
0.2km 肥後・古麓城(丸山城)
0.3km 肥後・古麓城(鷹峰城)
0.5km 肥後・古麓城(飯盛城)
1.0km 肥後・古麓城(八町嶽城)
3.1km 肥後・平山城
4.2km 肥後・麦島城
4.2km 肥後・平家ヶ城
4.2km 肥後・八代城
4.4km 肥後・龍峰城
4.6km 肥後・関城(後の城)
4.8km 肥後・関城(前の城)
5.9km 肥後・上土城
6.5km 肥後・岡城
6.6km 肥後・草場城
7.0km 肥後・田川内城
7.3km 肥後・千代永城
8.1km 肥後・小浦城
8.4km 肥後・宮原城
8.6km 肥後・陣内城
9.1km 肥後・黒淵城
9.3km 肥後・比丘尼が城

※距離はおおよその直線距離です。
海・川・山などの地形および交通手段は全く考慮していません。



最終訪問日
2011年10月
 縄張図 
現地案内板より
古麓城縄張図

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