築城年代は定かではない。
永正17年(1520年)守護畠山氏の要請によって越中に出陣した越後の長尾為景が、新庄に陣を構えて神保慶宗らの軍勢と戦い、慶宗を敗走させて自刃に追い込んだのが史料に現れる最初の記録という。
元亀3年(1572年)には上杉謙信の家臣鰺坂長実が在城し、同年加賀・越中の一向一揆が東進して火宮城を攻め落とし富山城を占拠すると、上杉氏は新庄付近に陣を構えて一向一揆と対峙し、富山城攻めの最前線となった。
天正6年(1578年)織田信長に仕えていた神保長住が越中に入国すると、天正8年(1580年)新庄城を攻めている。その後佐々成政が富山城を拠点として越中を平定していくが、天正10年(1582年)本能寺の変が起こると、織田方となっていた弓庄城主土肥政繁が上杉方となり、安城外町に火を放って太田之新城(新庄城)をも攻め落としたが間もなく成政が取り戻している。
新庄城は現在の新庄小学校一帯に築かれていたという。小学校の運動場が本丸跡というが、現在遺構は残っておらず、校門脇に案内板が設置されている。
新庄城主として伝えられる轡田豊後守(くつわだ)が、祈願所として建立したといわれる全福寺が城の北東にある。