詳細不明。天智2年(663年)に唐・新羅軍と対峙した日本と百済の連合軍は白村江の戦いにおいて大敗した。その後、大陸からの侵攻を恐れ西日本各地に築かれた古代朝鮮式山城の一つと考えられている。
女山神籠石は古塚山の西側を使った古代山城である。
遺構は南山腹部分に伸びる列石と土塁、そして西山麓に残る水門である。水門は北から横尾水門、長谷水門、源吾水門、産女谷水門の四ヶ所が確認されているが、源吾水門は消滅しており、現在見学できるのは残る三つの水門である。
山頂付近から南西の山麓にかけて列石が続いており、それに面して遊歩道が整備されている。列石は土塁の内部にあったもので、この石塁の外側で柱穴が確認されている。石塁は上面の角を高さが揃うように加工しているのがよくわかる。
山麓の水門は入口に道標が出ている。山上は森林公園の駐車場というより道路の余白があり、遊歩道沿いに列石が見学できる。
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