多武峰城砦群は大化改新で著名な藤原鎌足の廟所として建立された多武峰寺(現在の談山神社)に由来し、多武峰には飛鳥と吉野、宇陀を結ぶ街道があった。
この多武峰での戦いは三回あり、最も古いものは平安時代末期に興福寺と多武峰寺との間で戦いが行われ、このとき蕗野(冬野)城などが築かれている。
永正3年(1506年)には国一揆を結んだ国人領主のうち十市、箸尾、越智らが、多武峰や龍王山、二上山に立て籠もり、赤沢朝経の軍勢に攻められた。
永禄2年(1559年)、同6年から10年にかけては松永久秀と長期に渡って戦いが繰り広げられ、多武峰側は下居城、岡城、経ヶ塚城、冬野城などを築いて対抗し、松永氏を撃退した。
多武峰城塞群は巨大な城砦群で、広域では冬野城や下居城なども含まれるが、ここでは『奈良県中近世城館跡調査報告書 』にしたがい、御破裂山地区、念誦崛地区、岡道地区に分けて紹介する。
多武峰城塞群(御破裂山地区)は藤原鎌足の廟がある標高610mほどの御破裂山山頂を中心とした城である。
藤原鎌足の廟がある峰が曲輪として造成され、そこから北へ伸びた尾根に三条の堀切があり、北端は大堀切となる。
一方曲輪から南西に伸びた尾根は林道がつけられており、図示されている一条の堀切はわからなくなっている。ただ、ここも主尾根から外れた北西下に堀切が設けられている。
岡寺から御破裂山への登山道がある。念誦崛地区には舗装された道があり、ここからあるき始めると高低差の少ない尾根で見学可能である。
御破裂山へは談山神社からの登山道もつけられているが、談山神社は別途入山料が必要のようである。
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