築城年代は定かではないが応永年間(1394年〜1428年)初期の頃に首藤山内対馬守道美によって築かれたと云われる。応永8年(1401年)に道美は天方城を弟山城守に譲ったとされる。また「寛政重修諸家譜」の藤原秀郷流青山氏の家譜では山内豊後守通秀を祖として天方氏を称したとされる。
明応3年(1494年)天方通季の時、駿河の今川氏親は伊勢新九郎(北条早雲)を大将として遠江国に大軍を発し、このとき通季は今川氏に降った。文亀元年(1501年)遠江国守護斯波氏は信濃国の小笠原氏と連携して久野城と天方城を攻略したが、このとき通季は天方城を捨てて今川氏を頼って落ち、その後奪還した。
永禄3年(1560年)今川義元が桶狭間に倒れると永禄11年(1568年)には甲斐の武田信玄が駿河に侵攻し、三河の徳川家康も遠江に侵攻する。遠江の国人衆が続々と徳川家康に降る中、天方山城守通興は家康に降ることなく敵対していたため、永禄12年(1569年)榊原康政・天野康景・大久保忠隣らに天方城を攻めさせ、通興はついに家康に降った。
元亀3年(1572年)武田信玄は犬居城主天野景貫の案内によって多々羅城・飯田城を攻略して天方城に攻め寄せると通興は開城して降伏した。翌天正元年(1573年)徳川家康は天方城奪還のために平岩親吉を将として攻めさせると、天方城に籠もっていた久野弾正忠宗は必死に防戦したがかなわず降伏し忠宗は甲斐へ落ち、通興は再び家康に降った。
天方城は太田川の北岸にある城ヶ平と呼ばれる標高248mの山頂に築かれている。現在は城ヶ平公園としてよく整備されており、山頂まで車で登ることができる。
主郭は山頂にあって南を除く三方に横堀を巡らし、円形に近い形をしている。北側の駐車場の脇が二の丸でここにも横堀が残る。
県道58号線を北上して太田川に架かる天森橋を東へ渡る。この辺りから城ヶ平公園への道標があり、それに従って林道を登った終点に駐車場がある。
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