天正8年(1580年)明智光秀によって築かれたと云われる。
天正7年(1579年)織田信長の部将明智光秀が宇津氏の宇津城を開城させ、宇津氏によって横領されていた禁裏御料所を元に復した。その後、この辺り一帯を押さえる為に新たに築いたのが周山城で、光秀の部将明智光忠が在城した。
周山城は周山街道と呼ばれる京都から若狭へ抜ける街道を押さえる要所に築かれている。主郭には穴蔵式の天守台、西尾根には屈折する石段や高石垣、南尾根には尾根に沿って竪に伸びる石塁、石積を伴う通路など見所の多い城である。
主郭部一帯は総石垣造りで主郭には穴蔵式の天守台があり、入口は三つある。城域は広く、西の土の城部分を除いても、東西700m、南北500m程である。
主郭は山頂にあり周囲は石塁が巡り、東端に桝形を有する虎口、北に平入の虎口がある。主郭の東下には南北両尾根に土塁(石塁)が設けてあり、北と南にそれぞれ虎口がある。 南の虎口は東尾根の曲輪へと通路が繋がり、そこから南東の無線中継塔のある曲輪群、北東の尾根の曲輪群へと続いている。一方北の虎口は北尾根に続く曲輪群に繋がる。
山頂から北に東西二つの尾根が伸びているが、両方の尾根に曲輪が連なっている。 西側の尾根は主郭から北へ伸びる尾根で、先ほどの北虎口が道が付いている。この尾根の曲輪にも石垣が付いており、北へ降りていくとスロープの付いた曲輪、北端部分は一段小高くなった曲輪になっている。 東側の尾根はやや間隔を開けて曲輪が続いており、石垣は少ない。この途中にある曲輪は南側に食い違いの虎口が付いている。
主郭から西へ続く尾根にある曲輪群が一番石垣の残存度が高く、最大の見所と云われる3m程の高さのある高石垣もここにある。高石垣の下の曲輪は北側が石塁になっていて北西隅は隅欠になっている。南側の通路は通路の側面にも石積があり、北側には石組井戸が残っている。この尾根から西へ降りていくと堀切が二条あり、その先へ行けば土の城に行くことができる。
主郭から南へ伸びた尾根は西尾根から通路があり、西側面には石垣が良好に残る。ここから南へ続く尾根には西側に竪石塁があり、その下方に小さな段と曲輪がある。下の曲輪の東端には一段低く虎口が付いている。
主郭から南東に伸びる尾根にも小さな三段程の曲輪群がある。
登山道入口は東麓にあり、旧国道沿いに道標が建っている。近くに道の駅「ウッディー京北」があるので、これを利用するのが良いだろう。道の駅では「周山城址案内図」という縄張図入りの紙を頂けるので問い合わせると良い。ただし、この図面は縄張の一部しか載っていない。(登山道入口の地図)
車は道の駅「ウッディー京北」ではなく、慈眼寺の南側にある周山代官所跡に止めるのが良い。
土の城を含めて城域を散策するのに4時間30分程であった。主郭と西尾根の高石垣程度であれば1時間程度で見ることができるだろう。