築城年代は定かではないが大内氏によって築かれたと云われる。
文明2年(1470年)応仁の乱で西軍の主力として上洛中であった大内政弘の隙を突いて、東軍方の誘いに応じた大内道頓(教幸)が挙兵した。このとき政弘は乱鎮圧のため陶弘護を帰国させ、弘護はこの渡川城で道頓と戦って撃退、道頓は豊前国馬ヶ岳城へ逃れたがここで自害し乱は鎮圧された。
弘治3年(1557年)安芸の毛利元就と石見の吉見正頼が周防に侵攻したとき、大内義長の家臣野上忠房らが渡川城の守将であったが、毛利と吉見氏によって挟撃され渡川城を破棄して退いた。
渡川城は渡川駅の西に聳える標高352mの山に築かれている。要害山あるいは城山と呼ばれる山で阿武川が大きく城山を迂回して流れており天然の濠となっている。
渡川城は国道9号線の北側にある3つの峰に曲輪群があり、北から曲輪群I、曲輪群II、曲輪群IIIとする。
もっとも優れた遺構があるのか北峰の曲輪群Iである。主郭I1を中心としてI5までの曲輪群があり、南の谷筋に多重堀切や竪堀群を配して堅固に備えている。
主郭I1の虎口ははっきりしないが、東下のAから曲輪I4に下る道があり、この辺りから出入りしていたと考えられる。
北の曲輪I2は東に虎口がありわずかに土塁を備えている。曲輪I3は南北3段ほど、主郭I1との間がやや窪んでおり堀切があった可能性もある。曲輪I4はI1、I2、I5に通じる通路が集まる曲輪である。
曲輪I5は三段で南側に土塁がつく。南東尾根先には放射線状になった畝状竪堀群2、南の谷筋にも斜めに落ちる竪堀群3が確認できる。
曲輪群IIは東西両ピークにII1、II2があり、その周辺に曲輪群を配置する。広範囲に拡がるが堀は見あたらない。
曲輪群IIIは最高所を中心に西から南にかけて曲輪群を配置する。こちらも堀は見当たらないが、北の鞍部からピークの曲輪IIIに通じる通路がある。
渡川駅の西に見える山が城山で、国道9号線沿いに登山道があり入口に案内板が設置してある。道路の反対側に未舗装路があり、その先に2台程度の駐車場がある。
最寄り駅(直線距離)