天文13年(1544年)山ノ内俊清によって築かれたと云われる。 山ノ内俊清は家督を嫡男舜通に譲り、末子俊甫を連れて玉縄城を築いて移り住んだという。
俊甫は後に川口氏を称すようになる。天正17年(1589年)伊達政宗が会津に侵攻し葦名氏を滅ぼすと、川口俊安は伊達氏に従っている。
玉縄城は会津川口駅の南西に聳える標高484mの山に築かれている。現在は主郭まで登山道が整備されている。
主郭は最高所の標高484mのところにあり、そこから北、北東に伸びた尾根に向かって曲輪が連なる。
主郭は南背後に土塁と横堀を設けて遮断しているが、横堀は横矢が掛かるように鈎状屈折している。その背後は自然の谷間となっている。北は堀切に土橋が架かっているが、この虎口は尾根の登り口ではなく、登り切ってやや南に入った部分に築かれている。
主郭の北にあるのが二郭だが、この曲輪は変わった構造で平坦面を築いておらず、東西両側に拡がる尾根部分に土塁を設けている。北端には大きな枡形虎口があり、内側はl字の土塁、外側は堀切に土橋が架かる。
二郭の北にあるのが三郭でこの曲輪は広い。西に虎口があり、土塁が内折れになって外は鈎状に屈折した道が付いている。三郭の西山腹には数条の畝状竪堀群が設けられている。
三郭の北はやや緩斜面となり北端に社が祀られている。ここから一気に急勾配を下ると山腹にある平段に至る。この下には現在川口高校がある平地があり、ここも曲輪であった可能性がある。
山ノ内氏の城は居城の中丸城を含め枡形など発達した虎口を有するが、この城は枡形が大きいのが特徴でさらに土橋に連結する。西山腹にある畝状竪堀群などは他の城に見られないことから、山ノ内氏のあとに伊達あるいは上杉による改修も考えられるかもしれない。
登山道入口は会津川口駅から国道で野尻川に架かる橋を渡ってすぐを川沿いに南に降りるとある。入口に案内板が設置されており、ここから上の民家の方に登って行くと奥に階段がある。
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