築城年代は定かではない。稗貫氏の家臣大迫氏累代の居城と云われる。大迫氏は稗貫氏の租大和守広重の子が大迫常陸守重真と称した事に始まるとされる。
豊臣秀吉の奥州仕置きによって主家稗貫氏とともに没落し、大迫右近は又三郎と又右衛門の二人の子を連れて伊達領の人首に逃れ、右近はその地で没した。慶長5年(1600年)和賀氏と稗貫氏が一揆を起こすと大迫兄弟は旧臣を集めて旧領を奪還したが、南部の軍勢によって鎮圧された。また翌年の岩崎一揆にも加担したが、大迫又三郎は討死、大迫又右衛門は捕らえられて処刑され大迫氏の嫡流は滅亡した。
大迫城は桂林寺の南に聳える標高288mの山に築かれている。
主郭は山頂で、北西尾根下が二の丸という。主郭は南背後から重機が入っていて地表面が削られ荒れているが、南尾根には堀切があり土橋が架かっている。主郭の東側面に一条長い竪堀がある。
主郭から北西下に向かって段曲輪が続き、その下に広い二の丸とされる平段がある。ここには稲荷神社が祀られている。
案内板が桂林寺にある。北の谷から林道があり山には簡単に入ることができるが、主郭へは途中からよじ登る。