日本城郭体系の見出しに従って「野田城」として紹介するが、野田城の位置は確定されておらず、この地は「新館」と呼ばれており古館(野田城)とともに野田城の候補地の一つである。
宇部館の案内板によれば、野田氏は宇部館から古館(野田城)に移り、天正20年(1591年)野田城破却により、宇部館に戻った。あるいは新館を築いて移ったという。
新館は海蔵院の西250m程の丘陵に築かれていたという。 東西に深い谷が入り半独立丘陵になっている。
山上は北側が高く、南に向かってなだらかに傾斜している。鳥居があるが社はない。山頂部分と南端部分がやや平であるが、明瞭な遺構は残っていない。
谷を挟んで東側にある丘陵も館と見なす説があるが、ここも明瞭な遺構は検出されておらず、現在は「城内公葬地」になって地形が変わっているようである。