築城年代は定かではないが刈屋氏によって築かれたと云われる。 刈屋氏は田鎖氏の一族で、田鎖丹波守朝政の次男上野介高義が祖とされる。
天正4年(1576年)刈屋氏は和井内氏とともに茂市氏と田鎖氏らと戦った。また、天正15年(1587年)には刈屋刑部が袰綿領内まで侵攻したが、袰綿氏と和井内氏によって挟撃されて敗れ、蟇目に逃れたという。
刈屋兵庫高重のとき、南部家臣楢山氏と桜庭氏らに攻められ落城し、その後南部氏に従うようになった。
刈屋館は刈屋川と倉ノ沢川が合流する地点の西、東へ伸びた尾根の先端頂部に築かれている。
東西二郭の城で、西郭には八幡神社、東郭は墓地跡などになっている。『日本城郭大系』では西郭を主郭としているが、縄張からすると東郭が主郭ではないだろうか。現在東郭の西端土塁の上に標柱がたっている。
東郭は西端の最高所に曲輪があり西端に土塁がついて標柱がある。周囲には帯曲輪や腰曲輪がある。東側は北と東の二方に尾根が別れているが、このあたりは墓地として利用されていたため改変が大きく詳細は不明である。ただ、北尾根先端や東尾根の南側などに堀切の痕跡らしきものが確認できるので、もともと曲輪であった可能性は高い。
西郭の西背後は堀切でその先も窪んだ地形が続き西郭となる。八幡神社が鎮座する狭い曲輪があり、もともと西背後の尾根に堀切があったようだが、西から林道が来ていて遺構は失われているようだ。
東麓にある高昌院から旧墓地へ続く道がある。
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