慶長2年(1597年)に築かれた。文禄の役の和平交渉が決裂すると慶長の役が起こる。 渡海した日本軍は朝鮮半島南端を支配するために築城を開始し、その西端となる位置に順天倭城が築かれた。
築城は宇喜多秀家、藤堂高虎で行われわずか2ヶ月ほどで完成、小西行長が松浦鎮信、有馬晴信、五島玄雅、大村喜前ら九州勢を率いて守備した。
慶長3年(1598年)9月には朝鮮・明軍が攻め寄せてきたが撃退している。秀吉が没すると帰国命令が降るが、朝鮮水軍によって海路が封鎖され退路が断たれていた。巨済島に集まっていた島津義弘、立花宗茂、宗義智らは水軍を率いて小西軍の救援に向かい、朝鮮水軍を敗って小西軍は無事帰還した。
順天倭城は三方を海に面した丘陵に主郭部を置き、陸続きの西側に外郭を設けた城で、全、日本軍が築いた倭城のなかでは最も西に築かれた城である。現在中心部は公園として整備されている。
小高い丘の上に築かれた城の中心部は総石垣造りで、現在は石垣の大半が積み直されており、積み直しに至っては紆余曲折あったようだ。
主郭は南北に長く北に天守台があり、南端西と南に虎口が開く。この主郭を取り巻くように二郭があり、ここも石垣造り、南端から西は石塁がある。
主郭部に通じる西の麓には二ヶ所の虎口があり、そこがけ石垣がある。もともと西の山裾沿いに切岸があり、西側は空堀で区画してたようで、一部は湿地帯で残っている。
西にやや離れたところに小高い尾根が続いているがこれが外郭線で土塁や空堀が残っている。現状畑になっている部分が多く、歩いていいのかよく分からず、今回は見学していない。
公園で広い駐車場があり城内にトイレがある。
順天総合バスターミナル近くからバスがある。順天倭城近くのバス停に行くバスは1日4便くらいで時刻表もなく不明。동신교통という小さなバスターミナルまで行く便があり、ここから徒歩3kmくらい。