築城年代は定かではないが文明年間(1469年〜1487年)以降に三沢氏によって築かれたと云われる。
三沢為清・為虎父子が城主で、天正17年(1589年)三沢為虎が三沢領を没収され、毛利輝元に幽閉されるまで三沢氏の所領であった。三沢氏の後は毛利家臣の冷泉民部少輔元満が城主となった。元満は慶長の役の蔚山城の戦いで討死した。
亀嵩城は玉峰山から派生した尾根の一つ、標高624.9mの山頂に築かれている。
山は高く険しいので登りやすい季節に再訪する予定で、今回は亀嵩にある三沢氏関連の史跡の探訪と、亀嵩城の登山口の確認で訪れた。
国道432号線から玉峰山登山口である玉峰山森林公園に向かっていく途中に覚融寺がある。このお寺は天文22年(1553年)三沢為清によって建立され、為清の墓もここにある。また、三沢氏の後に城主となり慶長の役で討死した冷泉元満の墓も、この近くの青龍寺(廃寺)に残っている。
2011年の夏に訪れて以来の再訪。畑仕事をしていたお年寄りに聞いた所、昔登っていた道があるというのでそこから登っていったが、下山路は一応山道がありそれを利用した。
亀嵩城は山頂の南北に伸びた尾根の中央付近に櫓台があり、それを挟んで北と南に曲輪がある。北は三角点のある先端から北東下へ下がりそこから北へ階段状に曲輪が連なる。北西下へ降ると東西に長い曲輪がある。
櫓台の南下と南東下に曲輪があり、そこから東へ伸びた尾根に堀切がある。南へ少し降りると南北に長い曲輪があり、南端が一段高くなっている。そこから南尾根に降りると堀切が付いている。
道を伺ったお年寄りの話によれば、北西曲輪から北の山腹にある平段が寺跡であるという。
整備された道ではないが一応城跡まで登る山道がある。 登り口は覚融寺から奥へ入って行き玉峰山森林公園の駐車場のある所で、石碑の向側の山にピンクテープが巻いてある。
このピンクテープを頼りに登っていくと行けるのだが、一箇所尾根道から西下の谷を越えて反対側の尾根に取り付かないと行けない所がある。これが分かれば城跡には行けるが難しいかもしれない。
最寄り駅(直線距離)